住宅街に息づく「水の記憶」大阪市城東区・野江水神社を訪ねて…【大阪市都市景観資源】

大阪市城東区野江。地下鉄谷町線「野江内代駅」からほど近い住宅街の一角に、ひっそりと、しかし確かな存在感をもって佇む神社があります。その名も 野江水神社(のえすいじんじゃ)。大阪市の「都市景観資源」にも認定されている、地域にとって大切な歴史の拠り所です。

一見すると静かな町の氏神さまですが、その成り立ちを紐解くと、「水」とともに生きてきた大阪の歴史が見えてきます。

水害から人々を守るために生まれた神社

野江水神社の創建は 天文2年(1533年)。

戦国時代、細川晴元の家臣だった 三好政長 が、この地に榎並城(えなみじょう)を築いた際、たび重なる水害に悩まされていました。そこで城内に、水を司る神 水波女大神(みずはのめのおおかみ) を祀ったのが、野江水神社の起こりと伝えられています。

現在に至るまで、社殿の場所は創建当初から変わっていない とされており、それ自体が地域の歴史の連続性を物語っています。

豊臣秀吉も崇敬した「水火除難」の守護神

野江水神社の名を大きく歴史に刻んだ人物が、豊臣秀吉です。

天正11年(1583年)、秀吉が大坂城を築城した際、野江水神社を 水火除難の守護神 として篤く信仰し、社殿の修築を行ったと伝えられています。「水の都・大阪」は運河とともに発展した一方、洪水の脅威とも常に隣り合わせでした。

その中で、水神を祀る野江水神社は、為政者にも庶民にも心の支えとなる存在だったのです。

たび重なる大洪水と“不思議な無事”

江戸時代に入っても、この地域は水害を免れませんでした。

元禄16年(1703年)、享和2年(1802年) と大規模な洪水が記録されていますが、いずれの際にも「野江水神社は被害を受けなかった」と伝えられています。

ところが 明治18年(1885年)、未曾有の淀川大洪水では、ついに社殿が倒壊。その後 明治21年(1888年) に再建されたのが、現在の本殿・拝殿です。

鳥居のそばに佇む 「野江水流地蔵尊」 は、この明治の洪水で流れ着いたものとされ、後に大阪市都市景観資源にも登録されています。水害の記憶を今に伝える、貴重な存在です。

戦災を免れ、地域の日常に寄り添う神社へ

昭和20年(1945年)の 大阪大空襲 では、周辺地域が被害を受ける中、野江一帯と野江水神社は幸いにも大きな戦災を免れました。

戦後は急速に住宅地化が進み、神社は町の真ん中に溶け込む存在へ。

夏祭りや秋祭りなどの年中行事を通じて、今も地域の人々の暮らしと強く結びついています。

都市景観資源としての野江水神社

野江水神社は、大阪市都市景観資源 として登録されています。

理由は、単に古い神社だからではありません。住宅街の中で、歴史・信仰・景観が一体となって受け継がれてきた点 が高く評価されています。

高層ビルも観光客もいない場所で、500年近い歴史が静かに息づいている。それこそが、野江水神社の最大の魅力なのかもしれません。

【編集後記】

野江水神社を歩いていると、「大阪は水の都だった」という言葉が、単なるキャッチフレーズではないことを実感します。洪水と向き合い、祈りを重ね、災いを乗り越えてきた人々の記憶が、この小さな境内には確かに残っています。

忙しい日常のなかで、ふと立ち止まりたくなったとき…ぜひ一度、野江水神社で「水の歴史」に耳を傾けてみてはいかがでしょうか。

【参考・引用】

大阪市公式ホームページ

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