住宅街に眠る戦国の要衝―大阪市城東区野江「榎並城跡」を訪ねて…

大阪市城東区野江四丁目。地下鉄谷町線「野江内代駅」からほど近い住宅街の一角に、「榎並猿楽発祥の地・榎並城跡伝承地」と刻まれた石碑が静かに立っています。一見すると城跡とは結びつかない穏やかな街並みですが、この地には中世から戦国期にかけて、政治・軍事・文化の重要な舞台となった歴史が刻まれています。
もくじ(CONTENTS)
榎並の地と中世の景観

榎並城が築かれた野江一帯は、かつて摂津国東生郡・榎並荘と呼ばれた荘園に含まれていました。この地域は、旧淀川と旧大和川が近接する低湿地帯で、洪水が頻発する一方、水運と防御の両面で利点を持つ土地でした。
野江水神社付近にわずかな自然堤防状の高まりがあり、城はその微高地に築かれたと考えられています。こうした「水に囲まれた平城」という立地条件は、戦国期において極めて重要でした。
三好政長と榎並城の築城

榎並城は、天文年間(16世紀前半)に戦国武将三好政長によって築かれたとされます。別名を「十七箇所城」ともいい、室町幕府の料所「河内十七箇所」に由来すると考えられています。
城は大規模な天守を持たない平城でしたが、周囲を川や湿地に囲まれた堅城で、文献には「八か月にわたり籠城した」と記されるほどの防御力を誇ったと伝えられています。
「江口の戦い」と榎並城の終焉

榎並城が歴史の表舞台に登場するのが、天文17年(1548)から18年(1549)にかけての江口の戦いです。
主君・細川晴元に属していた三好政長と、台頭著しい三好長慶との対立の中で、政長の子・政勝が籠城する榎並城は長慶方の包囲を受けました。最終的に政長は江口城で討死し、榎並城も放棄・廃城となります。この戦いは、畿内の実権が三好長慶へ移る大きな転換点でした。
水害と信仰――野江水神社との関わり

築城の最中、榎並の地はたびたび水害に見舞われました。そのため三好政長は、水難鎮護の守護神として野江水神社を城内に勧請したと伝えられています。
現在も城跡推定地の南側に鎮座する野江水神社は、地域の水と暮らしを守る信仰の場として、戦国期から現代まで連綿と受け継がれてきました。
榎並猿楽と文化の記憶

榎並は軍事だけでなく、中世芸能「猿楽(能楽の源流)」の拠点としても知られています。鎌倉時代末期、この地を拠点とした「榎並猿楽」は一時、丹波猿楽の本座をしのぐ勢いを誇ったといいます。
現在の城址碑が「榎並猿楽発祥の地」と併記されている理由は、榎並城跡が政治・軍事と芸能文化の双方を内包した土地であったことを示しています。
地形の変化と「伝承地」としての城跡

江戸時代の大和川付け替え工事(1704年)により、この一帯の地形は大きく変貌しました。そのため榎並城の正確な位置や遺構は失われ、現在は石碑のみが往時を伝えています。
それでも、住宅街の中に残るこの小さな史跡は、野江という土地が中世から近世へと歩んできた長い時間を雄弁に物語っています。
【編集後記】おわりに

榎並城跡は、壮大な石垣や櫓を残す城址ではありません。しかし、川と湿地に囲まれた地形、戦国武将の興亡、水害と信仰、そして能楽へとつながる芸能史まで――
この小さな場所には、大阪という都市の原風景が凝縮されています。街歩きの途中、ぜひ石碑の前で、かつての榎並の風景に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
【参考・引用】
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